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2006年 02月 28日
無党派、神社お参りフリークから見た先の大戦&靖国神社考-1
 タイトルにあるとおり、無党派、神社お参りフリークから見た先の大戦と靖国神社考、である。戦争や靖国についての素朴な疑問をちょっと書いてみたい。ただ問題が、今日びの世相を鑑みるに、実に微妙な問題なんで、発表すべきかどうかさんざ迷った末のアップなんすけど。
 歴史事実に関しては浅学ゆえに、間違った部分が多々あるかもしれないが、ご容赦いただくとともにご指摘をいただければ幸いです。

http://bugswebblog.at.webry.info/200506/article_6.htmlより
(以下引用)
もちろん開戦は、避けたほうがいいにきまっている。避けられなかった為政者に開戦責任があることも、あるいはその責任は 昭和天皇に及ぶかもしれないことにも、わたしは同意できる。開戦を回避できなかった責任はしかし、開戦の理由が正当なものか、不当なものかの議論とは別なものである。日本の開戦理由の検証や理解にまで深入りすれば、それは、もちろんアヘン戦争にまでさかのぼる東アジアの歴史と密接に関連した話題なのだが、けっして国家犯罪でもなければ、侵略戦争でもなかった。その開戦理由を理解していない、あるいは理解はしているのだが、アメリカを中心とした現在の国際関係のなかで、それを主張すべきではないという考え方までもをふくめて、戦後右翼と呼べると思う。
(引用以上)

 この方のブログは、あれ?と疑問に思うことが時々出てくるが、こと上記については、全く同感である。
 ただ、開戦の理由に正当性があるにしても、戦争の遂行や植民地経営によって蹂躙された人々が現にいることは、まぎれもない事実なのではないか。 
 開戦や植民地化の理由さえ正しければ何をやっても良いことになってしまう。戦争とはそういうものだ、という意見もあろうが、いうなれば業務上過失致死、傷害であっても、反省をし相手を慮るというのが、地球上の数ある民族、国家のなかでも大人の部類に入るであろう日本人の役目ではなかろうか? 諌めるところは諌め、聞くべきところは聞くというのが、大人の対応である。ちょっと間違いを指摘されただけで、自虐史観だアカだなんだと罵倒するなんてのは単なる子どもである。自らの間違いは間違いとして認め、正しきところは正しきこととして、堂々と認め合うのが大人としての日本人の正しい姿なのではないだろうか。
 相手といっしょになってわめきあっているのは、単なるガキの喧嘩でしかない。大神様達は御心が広くていらっしゃるので、大目に見てくれるかもしれないが、そのようなふるまいははっきり言って日本の恥、アジアの癌と言っても過言では無いのではなかろうか。
 嗚呼嘆かわしきことかな。

 先ほどの引用は右寄りの論客の方のブログからだったが、下記は逆に左寄りの方のご意見だが、戦中戦後の日本の分析としては全く正しいと思う。共栄圏の理想はスバラシかったし、開戦はやむを得なかった面が大きいが、遂行された実態は、当時の日本人の脇の甘さや視野の狭さが現れてしまったということではなかろうか。対アジアの各国にしろ対米英にしろ、相手をよく理解していなかったということではなかろうか。他者との関係性の中で自己は決定されるのである。国においてもそれは当てはまるはずである。
(以下引用)
その意味で、戦前の「大東亜共栄圏」はその名称とは裏腹に日本のナショナリズムの拡張でしかなかった。一国のナショナリズムの拡張でアジア的な共同体を形成しようとする限り、別個な共同体の論理で生きている他民族の抑圧(侵略)にしかならないのは当然だ。京都学派を中心にした戦前の「近代の超克」も、結局は日本のナショナリズムに足をすくわれてしまったのである。
(引用以上)

(続く)

by darsana-te2ha | 2006-02-28 01:06 | いろいろ感想文


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