2006年 11月 06日
アメリカという人工国家の特殊性にもっと目を向けるべきかもしれませんね。-1
 アメリカという人工国家の特殊性、そこに目を向けないまま、その経済的繁栄を羨み、盲目的にその方法論を鵜呑みにし、そんな社会を日本は90年代後半より目指してきたようです。
 そして、この10年余りそのように日本を「改革」してきたことの結果が、現今の格差社会であり、多くの国民にとっての実感無き経済成長なのだと思います。
 安倍内閣の経済政策を見ても、更なる法人税減税や、医療費等の値上げ、緊縮財政といった、これまで通りの、アメリカ型新自由主義社会化を推し進める気でいるようです。

(タイトルについて:厳密にいえば「人工的」でない国家なんてあり得ないのですが、人工度がより高い国としてのアメリカというふうにお考えください。特に先進国中で民族国家から一番遠い国、といったような意味で「人工国家」という言葉を用いました。)

 日本はアメリカとは違うタイプの国民国家であり共同体であって、アメリカという国の成り立ちが持つ特殊性にもっと気付くべきでしょう。その上で日本の社会のあり方を考えていくべきであろうと思います。
 事実アメリカは高い経済成長を続けています。しかし、同じ先進国でも、日本やヨーロッパのような長い歴史をもつ共同体の上に成り立ってる国家と、アメリカは違う、ということを下記に紹介する橘川氏(新規メディア開発、マーケティング調査、企業コンサルティング等を手掛けてる方だそうです)は繰り返し述べておられます。
 この見方は、アメリカ型の新自由主義社会が、我が国の発展のための唯一の処方箋であるが如き言説を垂れ流し続ける政治家、官僚、御用学者、企業、マスコミ等への反撃材料の一つにもなるかと思います。


「暇つぶしの時代―さよなら競争社会」 橘川幸夫著 平凡社刊より
(P190)
このように、アメリカには世界中の「豊かさを求める人たち」が集まる。貧しくても、才能がなくても、同じ土地で生まれた者たちを守らなければならない本来の国家の姿とは、根本的に異なるのである。アメリカは国家というよりも、利益獲得と配分を目的とした人が集まった「会社」に近い。アメリカの移民政策を見ていると、新入社員の雇用選抜試験のように見える。

(P192)
アメリカは、歴史がないことを武器にして、逆に世界中から人材と富と技術を吸収していく大きな都市のような国家である。21世紀の世界は、アメリカ的な方法を追求する国家と、それとは別の、民族の特質を土台とする普通の国家とに大きく分けられていくのである。

(P94-95)
 僕は政治評論家ではないので、国際政治についてとやかく言うつもりはない。ただ、日本の社会のあり方と方向性を考える時に、昨今のアメリカの方向性とは大きく異なる道を歩むべきだと思っている。端的に言えば、アメリカは工業化による永遠の高度成長を目指す国家である。そして、日本は、工業社会の次のステップである、成熟した工業社会を目指すべきであると、僕は思っている。

 先進国の温室効果ガスについて、法的拘束力のある数値目標を、国ごとに設定しようとする京都議定書に、アメリカは署名しなかった。アメリカの国益に合わない、という理由からである。中国は、発展途上にある国も一律に規制するのは反対である、と言っている。アメリカは、自らをまだ発展途上国であると思い、永遠の発展を求めているのであろう。

 日本がアメリカに追従するならば、国家の方向性として工業社会を更に推し進め、中国と競争し、国際競争力を高め、リストラを徹底しなければならないだろう。果たして、そのような社会を望んでいる者がどれほどいるのだろうか。京都議定書の思想を実行プランに移しているヨーロッパ諸国が、日本の進むべき成熟化した工業社会を目指す仲間であるならば、いっそ日米安全保障条約を破棄して、EUに加盟すべきではないかと思う。もしくは、アメリカの反対に抗して、アジア諸国の中で成熟化した工業社会を目指す仲間とともに、アジア版EUを作っていく方向に進むべきである。

 日本の企業も選択を迫られている。永遠の高度成長を目指すこれまでの方法論をこれからも追求するという道も、ひとつの見識である。そのためには、日本を捨ててアメリカもしくはグローバルな企業になることを求められている。
大企業の多くが国際会計基準を採用したのも、そうした方向性の選択であろう。ホンダやSONYなどの企業は、もしかしたら、かなりの部分がアメリカの企業になっているのかもしれない。

(P198-199)
 世界中の近代国家を目指す国々は、現在、同じ問題を抱えている。各国のリーダー層はインテリであり、自国の権力闘争に勝ち抜いた者である。若い時にアメリカで学んだ者も少なくないだろう。競争社会に勝ち抜いた者は、アメリカの運動論に憧れ、アメリカとともに自国の発展を願うだろう。しかし、一般大衆層は、競争社会よりも自らの民族性に根差した生活を求めるだろう。少数のリーダー層と大多数の民衆の考え方の矛盾が露出してきている。工業社会を目指す限り、アメリカの運動論はこの上なく魅力的であり、アメリカという親会社の下で下請け作業した方が、自国を発展させるためには得策だと思うのだろう。しかし、日本は工業社会の次のステージへと進もうとしているのだ。

 企業については、こういう選択肢がある。アメリカを代表とする世界のステージへ進出し、「永遠の無限の市場」を求めて、新たな競争社会を全力で生き延びる道を選ぶか、さもなくば、本書で書いたような「オーナーシェフ型」の地域やユーザーの見える企業としての「生業」を求めるか、である。企業や政治は変革を求められている、とはよく語られる言葉だが、それは果たしてどちらの方向に進む変革なのかが問題なのである。単なる組織の合理化だけでは、社会全体が衰弱する。


 「改革なくして成長無し」と声高に叫んでいた小泉首相やその内閣が目指してきたものは、日本の社会の構造を上記の「『永遠の無限の市場』を求めて、新たな競争社会を全力で生き延びる」形にしていくことだったのでしょうね。マスコミもその流れに沿ってプロパカンダを進めてきたというわけでしょう。
 ただ、橘川氏も述べているように、それが日本の大衆が本当に望んだ社会であったのでしょうか? マスコミによる刷り込みによって大いなる誤解をさせられたまま、ここまで来てしまった面も強くはないでしょうか? (太字=当ブログ管理者)

「アメリカという人工国家の特殊性にもっと目を向けるべきかもしれませんね。-2」に続く))。
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by darsana-te2ha | 2006-11-06 01:07 | 日米関係


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