2006年 11月 12日
表現の大リーグと草野球。村上隆や諏訪大社とか。
 先日引用させていただた「暇つぶしの時代―さよなら競争社会」 橘川幸夫著 平凡社刊から、同じ部分になりますが再引用します。
 今回は普段かかわっているアートについて、同じ本からの考察です。

(P200-201)
 誰もが松井秀喜(大リーガー)になれるわけではない。しかし、選択の際に間違えてはいけないのは、競争社会の競争が厳しいから、そこから逃避するために草野球(身近な仲間たちとのプレイ)にいくのではない。草野球の中にこそ、これからの日本社会の基盤を作る可能性があるのだからと、積極的な意志を持っていかなければ、そこは単なるコンプレックスの集まりになる。競争社会の栄光ではなく、ともに生きる人たちとの楽しみを分かち合うことに喜びを感じなければ意味がない。日本が民族としての独立性を確保するためには、競争社会の中での自己責任を問う社会ではなく、競争に強い人も弱い人も、同じように生きていける社会システムを目指していかなければならないだろう。自己責任の名の下に強い者だけが勝ち残る社会ではなく、弱者を「救済」するのでもなく、強い者も弱い者も同じ視点で、全体として生きていく共同体こそ大事なのであろう。


 で、これを読んで、なるほど村上隆はアート界の松井秀喜を目指してたのかな、と思いました。
 同世代の人間として、彼は偉いとは思いますが、その物腰を見ていてあまり楽しそうじゃないw。起業家、ディレクターとして優れているのかもしれませんが…。

 日本のアートは遅れている、と以前から言われているけど、そもそも「アート」という概念・システムが欧米の政治経済文化と不可分のものなわけだし、グローバルな視点から見ると、それは数ある文化の一つでしか無いんですよね。
 実存的な個の探究という点では、欧米の表現は明らかに秀でていますが、欧米以外の文化圏でそれが、はたして広く必要とされているのか?といえば、簡単に肯くことはできません。

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 先日お詣りした諏訪大社下社とかもそうなんだけど、最近神社仏閣に行って思うのは、建築や彫刻のその高い技術と美意識。ただ欧米的なアートの枠組みからは外れているのですが…。
 セイム・オールドな神社仏閣スタイルを真似しろ、というのではなく、生活や日常に根ざした空間にそれとなく高度な技術と高度な美意識を持ったモノがある、っていうことの素晴らしさを、現代の日本で再現できないものか?と思うわけです(誰がカネを出すかってのも大きなカギになると思うけど、自分の無い頭ではアイデアが今思い浮かばない(~_~;))。

 21世紀はいろんな文化が相対化せざるを得なくなってくる世紀になることでしょう。同時に世界共通のマスプロダクツ文明の中にもいるってことですけど、その中で日本人の表現者として何ができるのか?ってことですよね。その立ち位置が有利に働いたり不利に働いたりするんでしょう。
 僕個人的にはグローバルな場所(大リーグ)に立つことより、具体的な身の回りの関係の中で、自らも楽しみつつ、高い芸術性を日常空間で実現できるような、「草野球」的なあり方を模索していきたいと、上記「暇つぶしの時代―さよなら競争社会」を読んでいて思いました。またそれには、神社仏閣の美術品のあり方も一つのヒントになるような気がするのですが…。
 個々の作品云々というより、お金の流れも含めた地に足の着いたシステムの構築が必要なんですよね。
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by darsana-te2ha | 2006-11-12 03:49 | いろいろ感想文


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