2007年 06月 17日
ザビエルをはじめとしたポルトガル宣教師たちに対する素朴な疑問。-1
 先だって書かせていただいた「キリスト教が「新大陸」で行なってきた暴力。」に、キリスト教は南米ではひどいことをしたが、南米と違いポルトガルの宣教師が布教をした日本では平和的な布教をしていて、南米といっしょにするな、とのコメントをいただきました。そのコメントに対する当方のレスを元に、日本での切支丹が果たして「平和的」で純粋に宗教的な動機のみで布教をしていたのか検証してみたいと思います。

 まず、ザビエルがやって来た当時の日本の大きな歴史の流れは下記のようなものでした。

O∴H∴西洋魔術博物館
「隠れ切支丹 : 知られざる西洋秘教伝統」
より
 以下、キリシタン史における主要な出来事を年代順に並べる(青文字は世界史の重要事件、赤文字は日本史の重要事件)。

 1540年 イエズス会創立
 1549年 ザビエル来日
 1579年 ヴァリニャーノ来日
 1580年 スペイン、ポルトガルを併合
 1581年 オランダ独立
 1582年 天正少年使節派遣。
        本能寺の変にて信長死す。
 1587年 秀吉の伴天連追放令

 1588年 無敵艦隊の敗北、スペインの制海権喪失
 1592年 フランシスコ会、ドミニコ会、日本布教開始
 1596年 サンフェリペ号事件
 1597年 26聖人の殉教
 1598年 秀吉死す。
 1612年 旗本および直轄地の禁教令
 1613年 全国的禁教令
 1616年 家康死す。
 1636年 鎖国令発布
 1637年 島原の乱

  俗に3つのGといわれる。Gold、Glory、Gospel

 ザビエルを最初とする宣教師たちが日本に次々と上陸し、神の教えを説いてまわる背景を皮肉る言辞である。
 少なくともザビエルは栄光と福音のみが動機であっただろうが、その後の顔ぶれとなるともうひとつのGの影がつきまとっている。

 日本の読者にはザビエル来日から島原の乱までの経緯はおなじみであろう。この稿ではキリシタン弾圧に至る社会的経済的背景に触れるにとどめる。

 そもそも当時の布教活動は国家の布教保護権のもとに行われていた。これは国家が教団の布教活動を軍事的経済的に保障するかわりに、教団は国家の植民地政策に協力するという恐るべき契約である。スペインの場合でいえば、メキシコ、ペルー、マニラがこの契約の結果、聖俗一体の軍事征服のはてに植民地となっている。ポルトガルはゴア、マラッカ、マカオを入手している。

 ザビエル来日当時、幸か不幸か日本は戦国時代であり、戦国大名が大童で血刀を振り回していた。五千から一万の兵員動員能力を有する大名も少なくなく、この状況下ではマラッカからの兵員海上輸送による日本の軍事制圧は不可能であった。むしろ大名たちをキリシタンに入信させることによる比較的穏健な文化侵略が是とされたのであり、以降イエズス会は有力大名に狙いを絞るトップ交渉をそつなく行っている。


 ただし有力大名たちにも魂胆があった。宣教師たちとつきあう目的はおおむね海外貿易による利潤であり、さらには最新兵器の入手であった。いわゆるキリシタン大名と呼ばれる人種も前期後期に大別されるのであって、大友宗麟と高山右近では水と油である。

 カトリックの日本布教は1549年のザビエル来日に始まり、以降トルレス、ヴァリニャーノといった有能なイエズス会士の指導のもと、着実に進展していった。これは同時にイエズス会とポルトガルによる対日貿易および日明貿易仲介業の独占をも意味していたのであるが、1580年のスペインによるポルトガル併合の結果、スペイン系の修道会であるフランシスコ会、ドミニコ会等が日本進出を企画、既得権を主張するイエズス会とのあいだで暗闘を繰り広げるようになった。


 ザビエルがポルトガル王国とは一線を画す自由な立場で布教をしていた、とのご指摘もありました。ザビエル本人が当時、どこまでポルトガル王国の戦略を理解していたかは知る由もありません。しかし、当時のポルトガル王国による東方進出政策に乗った上で彼はアジアにやってきた筈です。ヨーロッパ列強による植民地化に於いての宣教師の役割は、先遣隊として現地の情報収集及び、現地に自分たちの味方を作る為の懐柔工作を行うこととされていたようです。そのようなバックグラウンドの中てザビエルは、ポルトガル王国が武力で制圧し奪ったインドでの重要な軍事的・貿易的拠点・ゴアを足がかりに日本へやってきたわけです。またゴアにいたアントニオ・ゴメス神父に下記のような手紙も送っていたそうです。

「れんだいこのブログ綴り」より
「神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきて下さい。もしも日本国王がわたしたちの信仰に帰依することになれぱ、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと神かけて信じているからです。堺は非常に大きな港で、沢山の商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金が沢山ありますので、この堺に商館を設けたらよいと思います」(書簡集第93)。
 「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述ぺたように、堺の港についた時、持ってきたのが少なけれぱ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けが出来るからです」(書簡集第9)。

 植民地支配の先遣隊としての役割を大いに達成してると思わざるを得ない内容ではありませんか?

 ポルトガルによる情報収集活動については、大変優秀であったそうです。ただ、具体的な収集方法については、ライバル国であったスペインに追い越されないよう厳重に秘密が守られていたようです。

亜細亜大学国際関係学部HP内
「ポルトガルとアジア(1)」
増田義郎
より
ポルトガル人は,すぐれた情報収集のシステムを開発していて,それによって集めた材料にもとづき,的確な状況判断をおこない,現地の情勢に対応した行動をとることができたと思われる.ポルトガル王室は,スペインとの対抗関係から極度の秘密主義をとったため,詳細は不明だが,おそらくモロッコや西アフリカでの作戦や探険の体験を通じ,情報蒐集の独自の方法を身につけていたのだろう.公式使節として中国におもむく直前にトメ・ピレスが作成した『東方諸国記』Tome ..Pires,Suma Orientalは,南および東アジアの詳細な総覧だが,その詳細,正確かつ高度に分析的な記述を見ても,このことは容易に想像できる.....


株式日記と経済展望
「キリシタン大名たちは、ローマ教皇に忠誠を誓い、日本の『異教徒』と戦う『十字軍騎士』とされていったのである。」
より
とくに長崎から大分にいたる北九州地方の大名がキリシタン大名となり武器や火薬の援助を得て勢力を拡大し始めた。このことからもキリスト教の布教だけが目的ではなく、植民地支配のための軍事勢力でもあり軍事と宗教とは密接に一体化したものとなっていた。

彼らはまず最初に宣教師を送り込んで情報を探り出して本国に送る。つまり宣教師は諜報員として重要な役割があり、現代でも諜報員はもっとも優秀で最も忠誠心の高い人材が担っている。日本人達は彼らの教義や科学知識に対する知識を知りたがり、信長なども積極的に宣教師からの情報を受け入れた。


 以下「ザビエルを初めとした宣教師たちに対する素朴な疑問。-2」に続きます。

(太字=全て引用者)

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by darsana-te2ha | 2007-06-17 00:24 | 世界情勢


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