2007年 08月 19日
「価値観を共有する日米関係」の欺瞞-本論-1
a0054997_162398.jpg


 先だってちょっと触れました「『価値観を共有する日米関係』の欺瞞」の本論を書き始めたいと思います。

 今回は「ぼくらに英語がわからない本当の理由」という本の引用を中心に書かせていただきます。

 著者である岩谷宏氏は、英語の翻訳のお仕事をされてる中で、英語と日本語の間にある大きな溝、いうなればそれぞれの文化が持つ物事の価値観の大きな差に気が付かれたかれたそうです。

 モノや人との関係がお互いが不可分で影響し合い、変化、生成していくことを前提にしたあり方を「事(こと)」と呼び、反対にモノや人が、無であるところの空間に独立して存立することで、相互作用や変化を認めないあり方を「物」としておられます。前者が日本語のバックにある価値観・世界観であり、後者を英語のバックにあるそれらであると喝破しておられます。

 以下紹介させていただく氏の著書の中で、日本は元来、「事」を前提とした世界観を持っており、逆にアメリカも含めた欧米では「物」としての世界観を持っていて、そこには大きな価値観の断絶というか矛盾があると、氏の専門である言葉を媒介に自論を展開しておられます。

「ぼくらに英語がわからない本当の理由」 岩谷宏著 P13~14より引用(太字=引用者)
 なぜI am boy. ではいけないのか。日本語では当然「ぼくは少年です」でよい。

 I といえば(We ではないのだから)単数に決まっている。それなのに、なぜわざわざ、a という“ことわり書き”を boy の前につけるのか。さて、以下が本論。

 英語の名詞は物を指示する。

  ※「物」という言葉を「存在物全般」という意味で使う。

 日本語の名詞は、単数であることの暗黙の前提としているところが英語と違うだけで、本質は英語と同じく物の指示詞か、といえばそれも違う。日本語では「……たち」、「……ども」等を使わなくては複数を示せないのと同様、英語でも boys としなければならないのだから。

 ゆえに、またぞろ、「boy は単数やんけ。なんでわざわざ a をつける必要あるんや」と言いたくなってくる。

 英語の名詞は、a, the, s 等が付くことによって、物の指示詞として完成するのである。a は日本語では、「あ、ちょっと…」とか、「あ、これこれ、これよォ!」とかの「あ」、つまり、ものごとの特定点への注意を促す「あ」にほぼ相当するようにも思われる。

 日本語の名詞は、物の指示詞ではない。事の指示詞である。「少年」は、「少年というもの」を指示するのではなく「少年ということ」を指示するのである。ゆえに、主語が複数となっても「少年」でよい。例「おまえらは少年だ」

 引き続き同書 p15~16より引用します(太字=引用者)。
 で、じゃあ、日本語で(事ではなく)物を指示したい、という不心得物がおったら、そいつはどうすればええか。驚異的な発見であるが、日本語ではそれは不可能なのである。

 逆に英語で事を指示したいと思ったら、being a boy とか、to be a boy とか、ややこしくなるし、そもそも、I am a being a boy などとやると、それすら再び物の指示詞になってしまう。どもならんのォ、である。

 日本語では事(コト)は言(コト)であり、音声や文字を用いてカタチとなった言(コト)は、したがって、コトバ<--コトのハであって、けしてモノバではない。これはこの本全体の基本テーマであるので、ここでは簡単にのみ触れておく。
(ついでに、この本全体への注として:アル・ナイ(=在る・無い/引用者注)の成り立つのを「物」、アルしか成り立たないのを「事」と呼ぶことにする。くわしくは No,Not の項を。)


 最後に出版社のサイトにある、この本の推薦文から引用します。

「ON BOOK」サイト内
■本書を推薦します
「日本人必読の名著、25年ぶりの復刻を心から慶びたい」
金谷武洋/モントリオール大学東アジア研究所日本語科科長

より引用(太字=引用者)
 本書は、英語と日本語の根っこを支えている発想がいかに違っているか、そしていかにその違いが指摘されないできたかを訴える力作である。その発想の違いこそが「僕らに英語が分からない理由」なのだ。全体として秀逸な「英語を鏡としての日本文化論」になっている。絶版になって久しかった名著が25年を経て復刻されることを心から慶びたい。
 「a」から「Wild」までABC順に様々なキーワードごとに日本文化と英語文化が「腑分け」されていくのだが、そのトップバッター「a」がいきなり場外ホームランだ。僕がこの本に一番啓発されたのは、ここで展開されるコトとモノの区別である。岩谷氏は「I am aboy」の「a boy」はモノだが、「僕は少年だ」の「少年」はコトだと喝破するのだ。モノだから「a」と数えられる。一方、「少年」は「少年であるモノ」ではなく「少年であるコト」を指すのだ。だから複数でも「僕らは少年だ」と言える。
 こう岩谷氏に説明されると、数量表現が英語と日本語で違うことに気付く。「Three boys came」と「少年が3人来た」を比べてみよう。Threeの方はモノを数えるだけだから形容詞的にboysの前に来るが、「3人」は「少年が」の前でも後ろでもいい。こっちは「少年が来た」というコトにかかる副詞だからだ。誠に、日本語の事(コト)は言(コト)なのである。そこから「コト+ハ=言葉」が生まれ、「私のコト、好き?」とも言えるわけだ。安易な「英語公用語化論」や英会話学校の氾濫する今日の日本だが、その発想が日本語とどう違うのかを明快に解く本書は、初版から四半世紀たった今なお日本人の必読書である。

[PR]

by darsana-te2ha | 2007-08-19 15:55 | 日米関係


<< 小泉、竹中両氏の逮捕も現実味を...      呪術としての音楽、そして言葉。 >>