2007年 09月 22日
「個の確立」や「自由」がホントに絶対なんか? 「派閥」や「談合」がそんなに悪いことなんか?
  否定するにつけ肯定するにつけ、「自己責任」だの「新自由主義」なぞという言葉が、注目されてる昨今ですけど、いずれも日本やアジアの伝統的な価値観からすると、ちょっと相容れないものがあるのではないでしょうか?
 今やってる自民総裁選でも、「派閥」や「談合」を非難する一般の方々の声がよくTVニュース上で目に付きます。ただ、それらって確かに行き過ぎると、特定の個人や団体への利権と強く結び付くので良くないことですけど、日本の強さは、派閥や談合も含めた日本独自の利益分配システムがあったからでしょ。実際、日本の経済が弱くなって財政赤字が増えたここ10年と、派閥や談合の弱体化とが同時進行していませんか? 実際、原田武夫氏による「騙すアメリカ 騙される日本」とかを読むと、談合や派閥といった日本独自のシステムこそが日本経済の強さの秘訣と理解したアメリカが、80年代後半以降それらを物心両面から潰しにかかってきて、ここにきてその成果が大きく現れてきてる、ということのようですから(ーー;)。

創業夢宿 「日米の構造摩擦は経済摩擦ではなくて文化摩擦だ」より
(以前ここでも引用させていただきましたが、再引用です。)
 日本だって……日本人の伝統の中には、伝統的な西欧近代の経済原理でないものがある。じつはこれが日米構造摩擦の原点なんです、専門家はまだ気づいていないんですが。経済摩擦は文化摩擦だといってますよね、いま。その本当の意味はそこなんです。経済法則も違う、アメリカとまったく違うんです。流通形態も、それから社内の価値の配分、全然違う。だから経済法則が違うんですよ。表立っては賃金、地代、利子の法則を使っていますが、実質のまわし方はまったく違う。ほかにも、例えばポリネシアとかアフリカとか、インディオの人たち、この人たちがそれぞれ近代化を遂げたら、やはり西欧近代とは変わった近代になるんです。

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 テレビ上で、親米発言をしてる評論家、学者、経済人、政治家等、彼らは自分たちこそが一般人と違って、世界(?)の最先端・標準を理解しているってきっと思ってるんでしょうね。30年前ならいざ知らず、21世紀の今日に至っては、アメリカという狭い世界が全てである、と勘違いした単なる「井の中の蛙」であることも自覚しないままにね(笑)。
 「保守」を名乗る政治家や学者が、保守を破壊する「改革」を叫び続けているんですから笑止千万です。そんな矛盾したことをやってりゃ、心労で入院するのもやむを得ないんでしょうかね(笑)。

「ぼくらに英語が分からない本当の理由」 岩谷宏著 オンブック刊 p219~225「個性、個人主義」より
 いわゆる知識人、文化人といった人たちから、おりにふれて、「日本人には個の確立がない」等の発言がなされる。本書をここまでお読みになった方なら、日本では、人間が「個」として──主観的にも客観的にも──「確立」することがあり得ない、とお分りと思う。
 これまで、西欧の思想、および日本の多くの学者・文化人・知識人等は、次の重大事項を見過ごしてきている。
Ⅰ:個はいかにして確立した個になるのか、なったのか、なり得るのか。
Ⅱ:確立した個を前提にした場合、では、それらの個による集団生活の原理は、どこに、いかにして、求められるのか。

(中略:マルクシズムの集団生活原理の欠如についての批判がなされてます/引用者注

西欧的思考を大ざっぱに図式化すると次のようになる:

A 個(その基盤、由来は問われない)
        ↓
B 自由、闘争、抑圧、搾取
        ↑
C 抑圧、規制、改良(宗教、法、イデオロギー)


 …(中略)…そもそも、人間の社会的様態としての「自由」を表す言葉が日本語にはない。その理由は以下のように考えられる(「自由」という日本語は、明治時代に福沢諭吉が仏教用語から引用して「リバティ(liberty)」を邦訳したのが始めだそうですね。いうなれば近代化の過程で日本に入ってきた概念、ということになるようです/引用者)

 ①複数の人間が限られた自然資源を基盤として安定的に生き続けねばならない、という条件下では、自然に対しても、また他人や集団に対しても、「自由」はあり得ない(今や地球規模でそのことが明らかになってきたわけですけど。困ったことにそれでも尚、自分たちの儲けの「自由」を声高に叫ぶ方々〔例えばブッシュやそのバックにいる国際金融資本の方々とか〕がいらっしゃるわけなんですよね…/引用者)
 ②支配階層や、その行うところは、自分達とはしょせん違う次元にある、という認識を持ち、したがって、まともに対応せず、適当に(ごまかし等も含め)対応しながら,自分達の日常生活を維持しようとする(生活が破壊されそうなときのみ、一揆のようなかたちで抗議する)。

 そして上記①②の観念は、いまでも、日本の地方・地域の生きる知恵として、実に、健在である。多くの、「会社」等、企業体においても(but 今や破壊進行中ですけどね・苦笑/引用者)

(中略)

 個の確立とやらには、どうも肯定的・積極的な意味がなさそうだし、むしろ日本は伝統的に、個が確立しないで済む原理(=人が「物」化されないで、ただちに「事」化されている集団の原理)を持っているのであるから、こんごの日本人の課題は、個の確立などではなく、むしろ逆の、集団原理の普遍化(=小集団主義の克服)にあると思われる。

 小集団主義の克服は、小集団主義が、あちこちにぶつかって、何度も痛い思いをしたり、犠牲を生じたりといった経験を多数していくことで、なされるのか(←太平洋戦争や今日の経済グローバル化等があたるんでしょうか/引用者)。あるいは、実経験などはなんの役にも立たないのか。筆者はむしろ、どこにも出ていかない、内部処理・内部完結、他集団が他集団としてくっきり・はっきりみえる質を自集団が持つこと=内部充実、にそのカギがあると思える。

 なんとなく、みな人間で、おんなじやという観点より、にもかかわらず、(たとえば隣接する日本と朝鮮のお互いの文化さえ)あきらかに“ちがう”ことのもつ貴重さを、みつめることのできる神経を、とぎすましていくことが大切と思える。そして“ちがい”にもとずいて、お互いを尊重し、あるいは讃えることであると思える。

 “ちがい”の感受力、これは、歴史をみるかぎり、白人には大きく欠落していた能力である。日本人が、外国人受け入れ等に臆病なのは、むしろ、ちがいに敏感だからだ、とも言えるのである。また、いうまでもなく、日本文化は、鎖国時にその独自の花を咲かせた。


 この地球が、大きな『地球「事」』として完成し、安定するには──「事」には種々異なる構成要素が必要であるので──なにか、これこそ普遍原理なりと称する原理によって、“ちがい”を消去せらるることが必要なのではなく(だいいち、ぜったいに抵抗がおきるのでぜったいに消去できない)、さまざまな“ちがい”が、それぞれ、“ちがい”として明確化し、咲き誇ることが必要と思える。

 そういう意味では、「個性」とは、後天的に“確立”するのものではなく、本来もって生まれるものであり、この意味での「個性」は、日本の集団内においても成員がお互いについて認めていた。


 上記引用中にもありました欧米における個と集団の矛盾については、戦前のいわゆる“京都学派”の高山岩男氏(「戦争イデオロギーの発信者」として戦後、思想界から抹殺されてしまったようですが、おっしゃっていたことは非常に今日的な問題提起を含んでいたように思われます)が、発言されておりましたね。
(太字は全て当ブログ管理者によります)

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by darsana-te2ha | 2007-09-22 14:22 | いろいろ感想文


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