2007年 11月 04日
65年前とその本質が全く変わっていない英米支配層(アングロサクソン+ユダヤ)。-2
ちょっと間が開いてしまいましたが、「65年前とその本質が全く変わっていない英米支配層(アングロサクソン+ユダヤ)。-1」の続きです。

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 前回ちょっと触れさせていただいたように、今回は高山岩男氏による戦時中の著作からの引用の引用(「『大東亜共栄圏』の思想」より引用しました)を中心に書かせていただきます。
 以前ここで取り上げた石原莞爾氏とは違い、戦後も長く存命され、1993年に亡くなられるまで思想活動をされていたそうなので、今後その著作を読ませていただこうと思っております(先の大戦を思想面から先導した思想家として、終戦後はパージもされてしまい大変だったようですが…。確かにその思想を垣間見させていただくと、アメリカは嫌な顔をするでしょうね・笑)。

「『大東亜共栄圏』の思想」 栄沢 幸二著  講談社新書より
(P154~156より)
 高山岩男が批判した米英的世界観とは、近代西欧に生まれ、その後世界的な広がりをみせることになる自由・平等の観念を基本原理とする自由主義的な世界観のことであった。
 彼は個体の絶対性、つまり個に思考の価値をおき、個の自己発展や自立を重視する個人主義的な立場に立脚する米英的世界観に内在する「自由」と「平等」という、二つの原理相互間の一方を徹底させれば、他方が否定される関係になる矛盾をえぐり出した。そして彼は、「無制約の状態」(拘束の欠如)という意味の自由観が、現実には優勝劣敗・弱肉強食の自由競争を生み、さらには力の原理に立脚する帝国主義を現出させる、思想内在的な諸関係ないし限界を明らかにしたのである。
 高山のこの批判は、西欧近代の、自由とは他人の権利を侵害しない限りなにをしてもいい権利であり、平等とはこのような利己的な権利としての自由の平等ないし権利の平等を意味するというような、利己的な自由。平等観や、このような個人の自由の実現に第一義的な価値観をおく、利己的な自由主義の矛盾と、その歴史的な所産としての欧米帝国主義的のはたした役割の一面を暴露するものであった。この限りでは、彼の批判はあたっていたとみていい。ただ問題は、後述の日本的世界観が、米英的世界観ないし秩序原理を超克できるようなものであったかどうかにあった。
 ちなみに高山岩男の「世界史の哲学」では、一方では米英中心の「旧世界秩序」の歴史的転換をはかるとする「大東亜戦争」の世界史的意義を強調した、戦争美化イデオロギーとしての性格をもっていた。けれども反面では西欧世界の価値観や歴史的現実を基盤として形成された歴史理論ないし分析の枠組みを大前提とする、いわゆる近代主義的な歴史観や歴史研究に対する、先駆的な批判としての側面をもっていたように思われる。つぎのような彼の言説は、その具体的な現れであろう。
 近代の「世界史学」はヨーロッパの「世界史学」であり、ヨーロッパ近代の「歴史的現実」から出発したものであった。そこには「ヨーロッパ中心」とも評すべき「理念」が前提となっており、それが政治、社会、経済、思想、文化の隅々まで浸透していた。たとえば一定の発展段階を経過すべきものとされ、ヨーロッパが最高の発展段階に位置し、他は当然そこに到達すべき前段階にあると考える「発展段階説」に根本的な疑問を抱くものである。われわれは「歴史的世界の多元性」から出発して、その「世界的連関」を考察する立場へと進むべきである『世界史の哲学』昭和一七年)。

 まったくおっしゃるとおり、っていう内容で、今日的な問題提起を含んでいるご指摘ですね。米英支配層の本質である利己性と、それゆえに内在する帝国主義志向がこの65年間何も変わっていないということなんでしょう。

 米英的世界観の中心となるエッセンスである「自由」と「平等」の間にある矛盾についての考察は、「65年前とその本質が全く変わっていない英米支配層(アングロサクソン+ユダヤ)。-3」に続けます。
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by darsana-te2ha | 2007-11-04 02:05 | 日米関係


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