2007年 11月 04日
65年前とその本質が全く変わっていない英米支配層(アングロサクソン+ユダヤ)。-3
 「65年前とその本質が全く変わっていない英米支配層(アングロサクソン+ユダヤ)。-2」に引き続き、戦時中の高山岩男氏の著作からの引用の引用を中心に書かせていただきます。
 米英的世界観の中心となるエッセンスである「自由」と「平等」の間にある矛盾についてを中心に、下記に引用します。

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「『大東亜共栄圏』の思想」 栄沢 幸二著  講談社新書より
(P153~154より)
 「米英的秩序」は、世界の分割・支配をめざす弱肉強食の帝国主義的な「権力の原理」と、人格主義、デモクラシー、民族自決主義などの「倫理の原理」からなっている。
 後者の「倫理の原理」は、個人や民族を完成した絶対的な個体とみなし、この絶対的な個体は、相互に自由で平等な関係にあると説いている。けれどもこの自由と平等とは、簡単には結びつかない。「無制約な状態」(拘束の欠如)を自由だとするならば、この自由は「自由競争」を必然化し、「優勝劣敗・弱肉強食」の地獄を現出することになる。その結果は、当然のことながら不平等を出現させる。この不平等を平等な状態に戻すためには自由の制限が必要である。このことは自由の否定を意味する。
 以上のように本来結びつかない「自由平等」を端的に結びつくものと考える「個体絶対性の信念」を基礎にして「近代欧米文明の世界観」が出てきたのである。だから一方では優勝劣敗や弱肉強食の状態が世の中の実状となり、理論的にも「自然淘汰とか適者生存」とかが唱えられながら、他方では同じ「根源」から人間は「生まれながらに自由平等の人格であり個人」であるという「倫理の原理」が通用することになったのである。すなわち「個体絶対性の信念」という「根源は同じ一つ」のものから、一面においては「力」となり、多面においてはあたかも「力を否定」するかのような倫理が出てきたのである。
 近代の「国際世界秩序」や「社会秩序」を作った基礎原理は、要するに「力の原理」や「倫理的原理」とにあったのである。このような世界観の上で「力の面」だけを棄てて、「倫理の面」だけを維持することは不可能である。「別個の世界観」を樹立しなければならない根拠は、ここにある
(『思想戦と総力戦』昭和一八年)。

 欧米的な個としての個人や国家を前提にした世界観は、環境問題や貧富の格差、戦争の問題等、今日あちこちでその矛盾と限界が現れているようです。65年前に、それらの問題を超克するための思想戦として大東亜戦争を捉えていたという高山氏が理想とした「別個の世界観」は、65年前には実現されることが出来なかったようです。しかし、まさに現代の我々が引き継がねばならない問題なんでしょうね。
(その宗教的世界観や実践から、欧米的な個の思想を受け入れがたかった、イスラム社会や、中国の庶民が信仰してきたという道教が、これからの世界観の改変の大きなキーになるであろうと、ここで何度か紹介させていただいた山手國弘氏が述べておられましたね。)



 以下「65年前とその本質が全く変わっていない英米支配層(アングロサクソン+ユダヤ)。-4」にて、近現代のアングロサクソンの行動様式や資本主義の発展に大きく寄与したとされるプロテスタンティズムについて、補足的にちょっとだけ触れてみようと思います。
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by darsana-te2ha | 2007-11-04 13:13 | 日米関係


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