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2009年 02月 10日
オカルト秘密結社メンバーがアメリカや世界を動かしているようで…-番外編2
 以前書いた「オカルト秘密結社メンバーがアメリカや世界を動かしているようで…-番外編」の続編というか補足です。

 なんでも、ブログや著書を愛読させていただいてるB.フルフォード氏が、フリーメーソンの会員とか言う人に騙されそうになってるとか、なってないとか

 聞くところによるとそのメーソンの方はオカルト能力もあるとかで、フルフォード氏はそこに惹かれてしまったらしいです(あくまでもまた聞きなので真実のところは「?」ですが…)。
 もともとメーソンのようなオカルト結社は、オカルトの知識や能力を研究するための組織であって、そのメンバーにオカルト能力があってもフシギでは無いのですが、「オカルト秘密結社メンバーがアメリカや世界を動かしているようで…-番外編」にも書きましたが、メーソンのような欧米のブルジョワジーの結社というのは、自らが持つ莫大な財産を守るため、自らを頂点としたヒエラルキー(権力)を維持継続させるための方便としてオカルトを使ってるようですからね。
 ヒエラルキー上位の人がオカルト的な儀式や言説を利用して、自らが主導権を行使することが出来るブラックボックスをいつでもどこでも簡単に作りあげることが可能になる、という仕掛けです。
 たとえオカルト的に真実を語っていたとしても、その真実に巧妙に嘘を織り交ぜて情報操作をすることも可能でしょうし…(卑近な例で申し訳ありませんが、小泉・竹中等「構造改革派」の物言いが良い例かもしれませんね)。
 私如きの書くことでは、「釈迦に説法」で余計なお世話かもしれませんけど、体調も芳しくないようにお見受けするフルフォード氏には十分お気をつけ願いたいと思います。

 ま、仏教からの影響が少なからずある日本のような北東アジア土民にとっては、仏陀の言うダルマをごく普通に受け入れる素地がありますので、メーソンのようなオカルト使いが、その力を使って自らの悪を他者に回向(えこう)しようとも、その悪は水甕(みずがめ)に注がれる水のように少しずつ貯まっていき、いつか水は甕からあふれ出す、ということを理解することが割りと容易です。
 自らが無理に手をくださなくても悪は自身の悪によって報われる。同時因果もあるが異時因果もあるのです。この地球上に存在する限りそのダルマ(法則)からはなんぴとも逃れられないわけですし。

 ユダヤ・キリスト教が説く一方向の直線的な歴史的時間をのみ信ずる方々には理解しがたい、螺旋を描く時間感覚ってのが東アジアにはあるんですよね(マルクス主義もユダヤ教にとっての「救世主」が「革命」に変わっただけで、その基本的歴史時間構造はそのまま踏襲してるモノだと思われるのですが)。
 インドのように螺旋の周期を「ガンジスの砂の数」だとか「那由他(なゆた)」といったとてつもない長い時間に設定する場合もありますし、日本のように1年周期で考える場合もありますが、いずれにせよ歴史や時間というのは単に一方向に進化していくものではなく、1周して元に戻るという感覚が東洋にはありますし、日本人である私たちには割りと当たり前の感覚として意識の深い層にそのような感覚があるように思います。
 
 悪事を働いてきた欧米ブルジョアの秘密結社も、近代現代という彼らの信じる所謂「進化の最終段階」に到達することで彼らを中心とした一部の選民だけが「ハルマゲドン」を通して更なる「進化」を遂げるのではなく、逆にいろんな意味で「元に戻っていく」可能性が強いように思います。今起きてる世界同時不況はその一つの現れでは。

 以下「オカルト秘密結社メンバーがアメリカや世界を動かしているようで…-番外編」内で引用した記事の再掲です。

「千年紀末の神秘学」 高橋 巌著 角川書店刊より
以前も当ブログで引用させていただきましたが、再引用させていただきます・P185~189より)
 そういう権力的、唯物的な近代ヨーロッパ社会の基礎をきずきあげたのは、イギリス帝国主義ですが、その帝国主義は、十九世紀以降の産業社会において、キリスト教聖職者でも国王や官僚でもない第三身分、ブルジョアジーが中心となって大発展を遂げました。
 帝国主義がなぜ恐ろしいかというと、その基本にブルジョワジーの新しい体制があるからです。ブルジョワジーは、十六、十七世紀のころは新興の階級でしたので、自分たちの体制の核心部分に新しいヒエラルキアを組み込むために、オカルティズムの研究をしました。その意味でヨーロッパの新しい文化なり新しい精神なりの基礎にはオカルティズムがあり、そしてそのオカルティズムの代表がフリーメーソンなのです。

  ‥(中略)‥

 オカルト結社のオカルトとは基本的に何なのかというと、ある人物がこの世で巨大な権力と財力を身につけたときに、自分が手塩にかけて育てた人材と財産を死後になっても管理するためのシステムなのです。自分が死んだ後でも、自分の権力を失うことなく、死者として、いかにこの世に遺した人々に影響を与えうるか、いわゆる魔術というのは、基本的にはそのことをめざすのです。権力者が魔術儀式に関心を持つのは、そういうところからきています。
 結社のトップは、魔術的な儀式の中で、霊媒を通じて語る死者の言葉にしたがって、態度の決定をします。結社とは自分が死んだら、自分が霊媒をとおしてこの世を支配できると思えるようなシステムなので、金持ちになり、権力を身につければつけるほど、結社の存在が重要になってくるのです。

(太字=引用者)

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by darsana-te2ha | 2009-02-10 00:49 | 目に見えないコト
2008年 06月 09日
将門の祟りの怖さに思いをはせ、今の日本の政治経済のあり方を悔い改めていただきたい。
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(すっとんきょうな想像かもしれませんが…。)

 今回の通り魔事件でのトラックの暴走路に関係する神田明神といえば平将門の怨霊を祀った神社だそうですし、秋葉原といえば将門ゆかりの茨城県西南部へ向かうつくばエキスプレスの始発駅ですし…。
 将門は朝廷による圧政に苦しむ領民を救うべく立ち上がった挙句に、逆賊とされ朝廷に征伐されちゃったわけで。
 今回の通り魔事件は許されざる事件ですが、政府や財界による、ここんとこの政治経済の庶民イジメは目に余るものがあります。今回の事件では犠牲になられてしまったのはそんな一般庶民の側の方々でしたけど、今後政財支配階層の人たちに怨念の矛先が飛び火するとも限りません。
 政財界のトップの方々には、将門の祟りの怖さに思いをはせ、多くの国民の犠牲の下にグローバル化・格差化に邁進する今の日本の政治経済のあり方を、早晩悔い改めていただきたいものです。


 ちなみに日本の経済の中心地ともいうべき千代田区大手町1-1-1には、なんと将門の首が今でも祀られてるているそうではありませんか(←こちらから写真引用させていただきました)

 終戦直後、GHQがこの地を駐車場にしようと工事を始めたところブルドーザーが横転、一人が死亡してしまって駐車場作りをあきらめたとか(光文社新書「神社の系譜 なぜそこにあるのか」宮元健次著より)。政財界トップの皆さんが大好きな「アメリカ様」ですら言うことを聞かざるを得なかった、将門の祟りということらしいです。

平将門の首塚(ウィキペディア)
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by darsana-te2ha | 2008-06-09 15:18 | 目に見えないコト
2008年 02月 01日
私たち人類はどこに向かおうとしているのでしょうか?-3
 「私たち人類はどこに向かおうとしているのでしょうか?-2」からの続きです(今回は、今年のお正月からたまに書いている、金融や政治とは別の内容のものです。と言いつつ、全く関係無いわけでは無いのですが。今回のような内容は、政治や経済に興味を持つ前の若い頃からの、自分の強い興味対象だったのですが…)。

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 前回の補足的な内容になりますが…。
 下記引用の押田氏によれば、自己認識の中心点を、自我の外側(=宇宙の『意』・法則から遠いところ)から、行(ぎょう)を通じて内側(=宇宙の『意』・法則に近いところ)へ移動させていくことで、人の意識は真実・真理へより近づくことができるとされてます。表現方法が違いますが、前回ご紹介した島田明徳氏と同じことを述べてらっしゃるのではないでしょうか(前回ご紹介した島田師による「私たちの身体で言えば、細胞の活動や、内臓の働きといったもの」というのが押田氏のおっしゃる「内側」にあたるとこなんだろうと思います。下記引用の図の上部にあたる部分ですね)。
 そういう観点から押田師は現代社会に対して、一貫して鋭い批判をされております。実際、都会から離れた八ヶ岳山麓に庵を構え自給自足の生活を貫き通されておりました。私のような都会生活に慣れきった軟弱者には決して真似できないことなのですが(汗)、師の現代社会に対する警告には傾聴すべきことが多く含まれてるやに思われます(以前当ブログでも取り上げさせていただきました)。

平和への道
高森草庵 押田 成人(ドミニコ会修道司祭 1922-2003)
「今大事なのは、当たり前の人間になること」
より引用
いいか。人間にはいろんな層があるんだ。植物の層もあるし、自律神経ってのがあってそれで自分をコントロールしている。表面の意識、中心てのがあるんだ。その下はまあいわゆる意識の層だ。人間の層だなあ。アダムとエバのリンゴの園。善とか悪とかを決めるところだ。ここにはある中心がある。で、これが人間だと思ってるね、現代の人間は。
a0054997_0334487.gif いいか。うんこをしたくない時だ。よし、うんこをしようって便所へ行ってみろ。いつまでたってもうんこ出ねえよ。うんこしたいって思った時に便所へ行ってうんこすんの。お産だってそうだ。もう子供を生みたいからって言ったって、子供産めやしないよ。産気ってのがあんの。毎日の便所も、産気があんの。そこには表面層の中心があるんだ。自律神経ってのがあるんだ。それを感じたときに便所に行った方がいいっていう判断をするのは意識の層だなあ。
 だけど、ここ(意識の層)ですべてを分かろうとしたって、幻想だけだ。そうじゃない。人間はもっと深くに中心があるんだ。こっちに中心が行くほど単純な人間になる。そして知恵の光というものを受けるようになる。そのとき初めて常識的な判断ができるようになるわけだ。ところが今の教育は意識の層にかたまることばかりやってんだよ。深い中心に行くことを教えてないんだよ。だから人間がみんなロボットになっていくんだ。

  このごろの青年は来てもね、これやれって言えばやるけれども、困難を見つけて自分で工夫することを全然できない。全部ロボット化している。だから学校を閉鎖しろといってるんだ、俺は。みんなだめになっちゃう、こんな教育をやってたら。深みに行くのを<ぎょう>って言うの。<ぎょう>っていうのは行くって書くんだよ。どこの宗教にも<ぎょう>ってのがあるんだ。仏教だけじゃない。キリスト教でも、神道でもみんな<ぎょう>ってのがある。座禅とか、おみしらべの行とか。どの宗教でもそういうのがあるわけ、いいかね。そして今の悪は何をたくらんでるかというと、意識層と表面層でコントロールしようとしているわけ。深みに行かれたら困るから、全部ここでコントロールしようとする。原子兵器を発見したのもここだよ。全部分かろうとするうちに幻想が入って、ああ、すげえエネルギーが出るかもしれないって試してみたら原子爆弾ができちゃったんだなあ。だけどそれは真理でも何でもない。自分の悪魔的野心によって出会った悪魔的現象なの。
 今大事なのは何か。当たり前の人間になること。これがなければ平和の原点なんかないんだぞ。平和をいくらここで議論したって平和なんか来ないんだよ。なんかこの世のなかおかしいいってのを感じるのは、深みに中心があって単純な存在のときにおかしいって感じるんだ。そういう人間になること。学校を閉鎖して、そういう行をすること。そうしなきゃ日本も世界も救えないんだ。似而非西洋文明は今悪魔的な末期に向かっている。それに一緒に乗る必要はない。

 上記にあるように、「今の悪は何をたくらんでるかというと、意識層と表面層でコントロールしようとしているわけ。深みに行かれたら困るから、全部ここでコントロールしようとする。」ということが、まさしく私たちの現下の状況なんだろう思います(「深み」とはすなわち「宇宙の『意』・法則」ということでしょう)。
 所謂「秘密結社」や「爬虫類人」と言った「悪」の問題は、実は我々の意識のあり方と密接不可分なものであり、私たちが表面的な自我にとどまったままでいることが招いた一つの現実なんだと思います。
 我々の姿のメタファーでもあり現実でもあるのが「秘密結社」や「爬虫類人」といった「悪」の存在・イメージなのでしょう。
 それらは私たちの一人一人の意識の中に住まうものであるということでありますし、それらを退治するには、「敵」もしくは「悪」として私たちとは別個の存在として攻撃することではなく、私たちの一人一人の意識のあり方を、「深み」へ向けていくことが最も効果的な方法なんだろうと思います。そして「深み(=宇宙の『意』・法則)」というのは、どこかかなたにあるものでは無く、私たちの呼吸や心臓の鼓動といったものに強くリンクしているものなのでしょう。

 今の社会を動かす政治や経済が、教科書で習ったようなものではなく、ウラがあるということに多くの人々が気付くべきだと思います。しかしそういったウラで世界を動かしている「悪」や敵対者が、我々の意識を映した鏡であることも理解しておかないと、たとえ彼らをやっつけたとしても、そのような「悪」は地球上のどこかで形を変えて、我々の前に再び姿を現すのではないでしょうか。


 引き続き「私たち人類はどこに向かおうとしているのでしょうか?-4」(執筆準備中)で、欧米人(現代の日本人も含まれますかね)の信じる善悪二元論の限界と問題点について、ベトナム出身の禅僧であられるティク・ナット・ハン師の著作を参考にさせていただきながら書いて行きたいと思います。
(太字は全て=引用者)

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by darsana-te2ha | 2008-02-01 00:53 | 目に見えないコト
2008年 01月 26日
私たち人類はどこに向かおうとしているのでしょうか?-2
 「私たち人類はどこに向かおうとしているのでしょうか?-1」からの続きです。

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 同じ島田師の言葉で、電気エネルギーは宇宙ができた時から存在していたが、人間が電気として発見し使用するまではその存在が知られていなかった、という言葉がありました。
 また、イスラム教神秘主義者である「スーフィー」たちが好んでとりあげる、ムハンマドの生前の言行を弟子や信者たちが収め纏めたという「ハディース」の中に下記のような一節があるそうです。文中の「私」というのは、神(宇宙)のことです。
私は隠れた宝庫であった。私は知られることを欲した。
それゆえに私は宇宙を創造した。
(ラレ・バフティヤル著 竹下政孝訳「スーフィー イスラムの神秘階梯」平凡社刊 p23より)


 またラビ・バトラ氏の「サーカーの予言」(ラビ バトラ著、ペマ ギャルポ・ 藤原 直哉訳 )にあるように…
(P96より)
現在、世界経済は富める者によって、その構造自体に
腐敗や強欲や貧富の格差など致命的な問題を抱えてしまっている。
人為的にいくら取り繕ったところで、
この腐敗した構造に
大手術のメスが入ることは避けられない。

いずれ、アメリカ発の大暴落が世界全体に打撃を与える日がやってくる。

多くの権力を持った者が失脚し
多くの富める者がその富を失うだろう。

というのも、今のいわゆる「グローバリズム」や金融のあり方が、宇宙の『意』や法則から著しく逸脱した利己的なものであるがゆえに、自己破滅は免れられないであろうということだと思いますし、今は根本には手をつけず小手先の処理をアレコレやっているようですが、利己的で搾取的な金融や経済運営をこのまま世界で行っていけば実際に大混乱は免れないだろうと思われます。
 それは、所謂陰謀論者の言うような、巧妙で狡猾な悪知恵に長けた所謂『シオニストユダヤ』や『国際金融資本家』であっても、この地球というか宇宙に存在し活動している以上、宇宙の『意』や法則からは絶対に逃れられないという厳然たる事実と真理があるが故でしょう。
 旧約聖書にある「ソドムとゴモラ」の話は事実なのだと思います。「神を信じる」「聖書を信じる」というならば、「ソドムとゴモラ」のような多くの市民たちの利己的なふるまいによって神が滅ぼした町々のことを,よく肝に銘じるべきでしょう、と金融関係者や権力者たちに声を大にして伝えたいですね(笑)。
 もしその声が届かず彼らが利己的なふるまいを今後とも続けるようであれば、宇宙の『意』や法則(=神)からのそれなりの結果が待ち受けているはずです。より宇宙の『意』や法則に沿った「自己と宇宙が一体である(万物が平等である)」という考えと行動を我々がとって行くことが出来れば、所謂「秘密結社」や「爬虫類人」は怖れるに足らずだろう、です(笑)。

 以下「私たち人類はどこに向かおうとしているのでしょうか?-3」に続けます。
(太字は全て=引用者)

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by darsana-te2ha | 2008-01-26 19:56 | 目に見えないコト
2008年 01月 26日
私たち人類はどこに向かおうとしているのでしょうか?-1
 金融がらみの問題等について書き込みしちゃってたもんで、インターバルが長くなってしまいましたが、新年早々に書かせていただいた「2008年年頭に考える。これからの世界や人類の変化の方向性について。」からの続きです。

 先日引用した「人間という立場の重視、ヒューマニズムですよね。これは宇宙においては錯覚ではなかったか、という考えが出てくると思うんです。人間がもつ自然物という原則から逸脱しがちになりますよね。ひとり合点になる。」 ということについて別の角度から、やはりヒトという種がナゼ地球上に現れたかの解釈と合わせて書かれているものを引用・ご紹介します(ワタクシ如き、知性低き煩悩の塊たる凡夫には、手に負えかねる問題ではあるのですけど、理解の出来る範囲で考えてまいりたいと思います)。

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 既にご存知の方もいっらしゃるかもしれませんが、島田明徳師という武道と氣による鍛錬を行ってらっしゃる方の著作からです。私個人的には非常に納得できる内容となっております。アプローチの仕方は異なりますが、先に引用させていただいた山手氏とも共通する事柄をご説明されているのではないでしょうか。

『「悟り」の意味』 島田 明徳著 地湧社刊より(引用がちょっと長くなりますが…)
(p70~73より)
 犬や猫、猿といった動物は人間のような意識をもっていません。俗に言う、本能の働き(法則的な働き)で活動しているわけです。とりあえずここでは、本能と呼ぶものが、すべての法則の「因」として働く宇宙の『意』だと思ってください。私たちの身体で言えば、細胞の活動や、内臓の働きといったものがこの本能の働きと言えるわけです。
 この本能によって行動しているうちは、宇宙のことは理解できません。なぜなら、本能による行動とは法則的であり、宇宙の『意』に同調して行動しているといえる状態ですから、宇宙の『意』を認識するのに必要な、宇宙の『意』と相対する状態とはいえません。その状態であり続けるかぎり、宇宙の『意』を認識することはできません(←引用者注:人間と言う意識体が誕生する前の地球の状態のことですね)
 とすると、宇宙の『意』を認識するためには(相対する状態をつくるためには)、どうしてもその宇宙の『意』から離れる必要があります。つまり、法則的な本能に従って行動している状態から、自分の意志によって行動をできる状態にならなくては、宇宙の『意』を認識することはできないのです。法則とは、ある特定の拘束された状態ということですから、それに相対する状態とは、拘束されていない状態つまり、自由な状態ということです。ゆえに、宇宙の『意』を認識するには、人間のような自由意志をもつ意識が必要なのです。これが、人間に自由選択権が与えられている理由です。

 もちろん、自由意志をもってると言っても、勝手気ままに行動してよいということではありません。あくまでもこの自由は、宇宙自身を認識するために必要なものであって、その「目的」を無視した行動は、それなりの結果が生じてくるようにできています。自分勝手な行動をしていれば、病気やその他、生活をしていく上で苦しい状況が自然に生じるようになっているのです。自分の意識の源である宇宙の『意』こそが、本来の自己そのものなのであって、そこから離れた(それを知らない)状態というのは、偽りの自己(見かけの自己、本当の自分の一部分)なのです(引用者注:古来インドではそれを「マーヤ(幻覚)」と呼びました)。
 偽りの自己の状態を続けていても、自分本来の能力が十分に発揮できるはずがありませんね。自分にとって都合の悪いことが生じてくるのは当然です。
 このように、自由に選択できる意識をもたされた人間であっても、宇宙の『意』から離れた状態を続けていくことはできません。軌道修正をせざるをえなくなるのです。これもまた、宇宙の『意』による法則の働きなのです。
 矛盾してるようですが、宇宙の法則は一つではありません。一つの法則から離れても、別の法則によって何らかの拘束は受けているのです。たとえば、人間の場合、自由に選択できる意識を与えられていても、身体の働きは宇宙の『意』に従うよう、法則による拘束を受けています。
 このように宇宙の法則は、物理的なものから精神的なもの、また、さまざまな意識のレベルに応じていくつもの法則がからみあって機能しています。そして、宇宙の『意』とは、これらにさまざまに働く法則の源(「因」)なのです。
 まことに複雑ですが、人間の意識の源である宇宙の『意』を認識するためには、一時、宇宙の『意』から離れた状態(宇宙の『意』を感じられないような状態)が必要だけれども、しかし離れたままではいられないのです。なぜなら宇宙の『意』を離れた状態から宇宙の『意』を実感し、認識するのもまた宇宙の『意』による働き(法則)だからです。
 人間に与えられた意識は、さまざまな進化を経て、動物レベルの意識から自分の意志を自由に働かせることのできるレベルまでに高まってきました。それは、宇宙が自らを認識するために進化させてきたのです。ゆえに、その進化を経て、宇宙の存在(自分の源=『魂』)を認識できるだけの意識をもった人間は、いつの時代においても「自分とは何か?」「自分はどこから来て、どこに行こうとしているのか?」という根源的な問いかけを、自分に向けざるをえないのです。そしてその答えは、「自己と宇宙が一体である(万物が平等である)」ことを実感すること、つまり「悟る」ことで得られるのです。


 以下「私たち人類はどこに向かおうとしているのでしょうか?-2」に続けます。
(太字は全て=引用者)

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by darsana-te2ha | 2008-01-26 19:17 | 目に見えないコト
2008年 01月 04日
2008年年頭に考える。これからの世界や人類の変化の方向性について。
 いよいよ2008年が始まりましたね。旧年中はお付き合いいただきありがとうございました。本年もよろしくお願い申し上げます。
 さて、今年は昨年以上に、古いものが淘汰され新しいものが勃興してくる変化のスピードが速まっていくようですね。2008年第一回目の今回は、そういった大きなパラダイムの変化に関連したお話をさせていただこうかと思います。

 今後の世界の流れについて、特にイスラムと、アメリカ・イスラエルをはじめとした欧米社会との対立を例に、以前引用したことのある下記を再引用します。'90年代の湾岸戦争の後くらいにに語られたもののようですが、そのご指摘と全くその通りに世界が進んでいるように思われます。現代ヨガを主宰されていた山手國弘氏によるものです。

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創業夢宿より(←リンク元が移動で切れてしまってるようですね。より長い引用は当ブログ「別の側面から見たアラブとアメリカ+イスラエルの対立問題-1」にあります)。
ユダヤ民族はセム族で、アラブ民族はハム族。セムもハムもほとんど同族です。神話でも同族というのは描かれていて、兄弟がユダヤとアラブに分かれたことになっている。もちろんパラダイムの元になっている旧約聖書も共通です。

それでは、なぜあんなに激しい対立をするのか、ほかの世界から見るとちょっと奇妙ですけれど、あの中には実は東西問題の、さらに未来に向けての延長線上の問題がひとつあると思うんです。 南北だけじゃなくて東西問題の延長があるというのは、アラブの回教徒の場合はユダヤ教キリスト教徒と違って、経済原理に相当大きな変革がありますね。例えば利子をとってはならないというのもそれに当たるんですが。専門家も見落としている大きな変革というのは、徹底的な宗教改革によって、実は人類のアイデンティティをものすごく変えているのがアラブだということです。アラブが奇妙でわかりにくいとよく言うのは、人間と人間の間の契約についてはルーズだということですね。商取り引きでも個人間のいろんな約束事でもそうですが、約束通りしない。道を教える時も正反対の道を平気で教えて、違ったじゃないかと言っても、しゃあしゃあとああそうですかという程度で、人間間の約束やつき合いについては、重点を全くおいていない。もちろん人間間ですから、国家と国家の約束についてもそれほど重点をおかない。

ところが、“人間と神”という言い方をするんですが、人間と宇宙原理とでもいう関係においては、ものすごく真剣になるらしい。宇宙原理に従うことにおいては厳密にそれを規定しようとするし、背くことには恐れを抱くんですね。死んだあとあとまでも運命が決まってしまう。だから、宇宙原理に従うか従わないかは、彼らにとって死活の問題らしい。 そこで考えられることは、アラブは人間間の約束事、社会的な約束事について比較的曖昧で、近代西欧社会は非常に契約的に厳密にやる……人権を尊重する、個を尊重する……やり方ですよね。そのどちらが未来的かというと、どうもアラブのほうに軍配が上がるような気がします。

どうしてかというと、今まで西欧のヒューマニズムに完成してきた、個の思想に完成してきたものは、人間という立場の重視、ヒューマニズムですよね。これは宇宙においては錯覚ではなかったか、という考えが出てくると思うんです。人間がもつ自然物という原則から逸脱しがちになりますよね。ひとり合点になる。地球上に余力がある場合、フロンティアが多い場合はそれでやっていけます。まあ、しわ寄せを自然に押しつけて、人間中心の生き方、生活様式をとり、社会的な構成をして、その揚げ句の果てに起きたものが公害だったんですけれど。それでもまだ余力のあるうちはいいけれども、環境問題が出てきたりすると、自然のサイクルに従わないといけなくなる。これはヒューマニズムとは違いますね。いわゆるオントロジー(Ontology。哲学用語で存在論のこと。ここでは主客一如、認識する側とされる側は一体であるといった意味で使われているようです/当ブログ管理者)に近い。

ヒューマニズムは、個の思想です。個を基準とした宇宙観。結局フェノメノロジー(phenomenology=現象学。ここでは主客分離、すなわち認識する主体と対象が乖離した形で世界を認識すること、いわゆる西欧自然科学的なものの見方を指しているようです/当ブログ管理者)になる。個が基準ということは、結局形あるものが基準ということですから、フェノメノロジーになりますよね。これは、この前の回で取り上げたオントロジー、本体論の裏返しです。その裏返しのほうにこれから近寄るだろうと推測できるんですが、その圏内で見れば、裏返しに近寄った始まりが、ユダヤ教、キリスト教に続くイスラム教であったと言えると思います。 ヒンズーとか中国の思想はまた違いますが、中近東辺りやヨーロッパに広がった思想の中では、生活様式の変化とか、社会、経済原理の発展が、全部個の原理に並行していますから、現代の文明社会をつくっている経済原理や科学技術の原理、工業社会の原理は、明らかにユダヤ教、キリスト教の延長ですよね。そこへアラブが後発の形で……宗教改革はずっと以前に行なわれたんですが、それを近代社会に体制として現わしてくるのが遅れていますね。これが今、出てるんだろうと思うんです。

ですから、人間関係とか社会関係がとても曖昧に見えるのは、実はアイデンティティ、リアリティを形あるもの、個々の単位や人間という個の立場におかないで、場や、ついには神と彼らが言っている宇宙原理、宇宙のほうにアイデンティティ、リアリティをおいた場合のものの解釈、生活の編成の仕方、社会の構成の仕方、ここへ無意識のうちにもっていっているからです。これがアラブだと思うんです。ですから、アメリカもヨーロッパも理解できない。

 上記に記したことと関連してくると思うのですが、現実的な政治経済を越えたもっと長い目、広い目で私たち人類の立ってる位置について、しばらく考えていこうと思います(ただ私事で恐縮なんですが(笑)、毎年年明けから3月にかけて確定申告で多忙になってしまいまして、思うようにブログ書きに向かえないことが多いかと思いますが、お許しを…)。
(太字=引用者)

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by darsana-te2ha | 2008-01-04 18:06 | 目に見えないコト
2007年 11月 16日
オカルト秘密結社メンバーがアメリカや世界を動かしているようで…-番外編
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John D. Rockefeller (wikipediaより)

 以前書いた「オカルト秘密結社メンバーがアメリカや世界を動かしているようで…」に関係してくる内容だと思うのですが、先だってベンジャミン・フルフォード氏のブログにロックフェラー家に関して下記のようなことが書かれてました。

「私のひいおじいさんはロックフェラー1世に殺されました」より引用
G.T.Fulford は1905年にジョン.ロックフェラー一世の友人だった。ジョンロクフェラーは全ての富を手に入れたが、いつか寿命がきて死ななきゃならないことにすごく不満を持っていた。そこで彼自身が神様を呼びつけるか、自分で神をつくるか考えた。

そのために自分の子孫に全ての知識を伝え、綿密な計画を残し、長期計画として全ての人類の脳をロックフェラー系に洗脳し、人工的な神を作り復活するつもりだった。殆どきちがいでしょう。その具体的な方法として、世紀末を人工的に演じ、人間を奴隷にするつもりだった。石油と通貨と軍と情報管理を用い、長期計画を実現したかった。

G.T.Fulford はこの恐ろしい彼の計画を止めようとした。当時GE(General Electric)の筆頭株主だったG.T.Fulford は電気でロックフェラーの石油利権を潰そうとした。

そうしたところ、1905年にG.T.Fulford はロックフェラーに殺された。その際、祖父はまだ三才だったので自分の資産を守ることが出来ず、GEの株は全てロックフェラーの手に渡った。

 内容をどうとるかは別にして、これを読んで真っ先に思い立ったのが下記。まさに、下記の内容を証明してるが如き、フルフォード氏の書かれた内容だと思ってしまいました。

「千年紀末の神秘学」 高橋 巌著 角川書店刊より
以前も当ブログで引用させていただきましたが、再引用させていただきます・P185~189より)
 そういう権力的、唯物的な近代ヨーロッパ社会の基礎をきずきあげたのは、イギリス帝国主義ですが、その帝国主義は、十九世紀以降の産業社会において、キリスト教聖職者でも国王や官僚でもない第三身分、ブルジョアジーが中心となって大発展を遂げました。
 帝国主義がなぜ恐ろしいかというと、その基本にブルジョワジーの新しい体制があるからです。ブルジョワジーは、十六、十七世紀のころは新興の階級でしたので、自分たちの体制の核心部分に新しいヒエラルキアを組み込むために、オカルティズムの研究をしました。その意味でヨーロッパの新しい文化なり新しい精神なりの基礎にはオカルティズムがあり、そしてそのオカルティズムの代表がフリーメーソンなのです。

  ‥(中略)‥

 オカルト結社のオカルトとは基本的に何なのかというと、ある人物がこの世で巨大な権力と財力を身につけたときに、自分が手塩にかけて育てた人材と財産を死後になっても管理するためのシステムなのです。自分が死んだ後でも、自分の権力を失うことなく、死者として、いかにこの世に遺した人々に影響を与えうるか、いわゆる魔術というのは、基本的にはそのことをめざすのです。権力者が魔術儀式に関心を持つのは、そういうところからきています。
 結社のトップは、魔術的な儀式の中で、霊媒を通じて語る死者の言葉にしたがって、態度の決定をします。結社とは自分が死んだら、自分が霊媒をとおしてこの世を支配できると思えるようなシステムなので、金持ちになり、権力を身につければつけるほど、結社の存在が重要になってくるのです。

(太字=引用者)

 英米の啓蒙主義、資本主義は、合理精神に基づいているので、オカルトとは無縁だろうと思われがちですが、そうでもないようです。先日引用した「日本人のための宗教原論」にもありましたが、彼らが否定した「迷信」というのは、主にカトリックが行っていた秘蹟や免罪符といった、キリストの名をかたった「まじない」が中心のようで、交霊や降霊といったオカルティズムを完全に否定していないようですね。というより自らの財産を将来にわたって守るという合理的な目的のための方法として、オカルティズムを研究・利用しているようです。

 こういうオカルト系のお話の苦手な方々も多いかと思いますので、「ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報」さんが「Fulford's Medicine Men」と題して冷静な事実検証と確認を行なっておられますので、ご興味のある方はご覧になってみてくださいませ。


こちらに補足を書かせていただきました(07/11/17))。
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by darsana-te2ha | 2007-11-16 00:06 | 目に見えないコト
2007年 11月 03日
国際金融資本のバックにいるというオカルティストたちに狙われてるらしい日本。
今回は、理論的裏づけにまったくよらないオカルティックなお話なので、そういうのが苦手な方はパスしてくださいね(^^)。


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日本の高速道路を外資に売り飛ばした売国奴が副知事になってしまうような東京は、ほぼ彼らの手中に収まったのかもしれませぬ(ーー;)。

ただ幸いなことに日本の屋台骨は東京ではなく、地方の名も無い美しい場所にあるらしいので、そこを守ればなんとかこの悪い流れを止められるようです。

それに気付いた彼ら国際金融資本のバックにいるオカルティストたちが、今後攻撃を仕掛けてくる可能性も高いかもですね。

売国のお先棒を担ぐ大手マスコミや検察庁・財務省等による、地方企業や地方自治体・神社仏閣等へのネガティブプロパガンダが始まったら、危ない兆候かもしれません(もしかして今回の「赤福」スキャンダルや大相撲スキャンダルってば…?)。

イラクを見てもわかるように、図体のデカイ彼らの弱点はゲリラ戦や長期戦のようですね。

戦略的には、防衛線をしっかりと見定め、そこに我々のエネルギーを集中させて死守すべきなんでしょうね(ほんとうに大切な場所は「世界遺産」などに登録させ人目にさらさせるよりも、そっとひっそりと守ってさしあげるのがよろしいようです)。
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by darsana-te2ha | 2007-11-03 15:00 | 目に見えないコト
2006年 09月 13日
先の大戦に対する日本人の戦争認識について。-2
「先の大戦に対する日本人の戦争認識について。-1」からの続きです。)

 続いて、「キリストに出会った仏教徒だ」と自らをおっしゃり、自給自足の修道生活を八ヶ岳山麓でなさっていたカトリック司祭故押田成人師(大正13~平成15年)によるお話です。ちょうど大学生でいらした時に太平洋戦争が始まり、多くの学友が戦地に赴き、何人かが亡くなられたそうです。ご本人は徴兵されたものの病身のため内地に残り、戦後修道生活を始められたそうです。
 自ら進んで、戦争時に被害を受けたアジアの方々の憎しみに会いに行こうとされたこともあったそうで、私なんぞのような凡夫には到底真似できないことではありますが…。

子どもと生活文化協会HP内「平和への道」(1994年)より
私はね、南京大虐殺の真相を知りたくて中国へ行った。十何年前、まだ非常に入国が難しいころだったけど、香港でやっとビザがとれた。そのビザは都市だけのビザだった。私は香港から、私が聞いていた中国の赤十字の人に電報を打った。ただ、何時何分の飛行機で上海に着きます、と。
 (中略) 病院を出てすぐ、「それではこれから南京へまいりましょう」そして、紅十字の南京の責任者にお会いした。私は言ったの。「実際に南京虐殺の現場で犠牲を体験した人にぜひ会いたい。その方の言葉を聞きたい」「分かりました」三人の方を招聘してくださった。一人は「日本軍が戦争をするための大事な仕事を手伝ってもらいたい。まずここに穴を掘ってくれ」といわれて、みんな穴を掘った。穴を掘ったあとで一人ずつ首を切られて落とされた。彼は首を切られる前に自分から穴へ落っこった。そして下の人の服の下に首をつっこんで、こうやって首を切られたようにしてた。上からさんざん銃剣で突き刺された。だけど死ななかった日本兵が帰ったあと、友達が見に来て助け出された。もう一人は揚子江の川の上に一晩じゅう浮いて死んだふりをしてた人。そういう人の証言。もう耳をおおいたくなるような気持ちで私は聞いていた。そして、その銃剣で刺された人は、私の顔を見てね、「僕たちはこんなに似てるじゃないか。なぜあんなことができるのかねえ」って言ってたんだね。その時ね、私は当事者じゃないという意識がいつもあったの。だからまだ本物じゃない。
 もう一つの例を言おう。私は戦後、フィリピン、それから中国と台湾、そういうとことに行ったときに、どうしても日本軍がしたことにたいする憎しみに会いたかった。僕はね、フィリピンに着く前に、飛行機の上から見てね、ああ、あんなとこで友人たちが散っていったんだろうなあ、どこにいるのかなあと思いながらね。だけど憎しみに会いたかった。僕が日本人だということを分かるはずだった。僕が日本人の格好をしてるから。しかし、会おうとするほど歓迎に出会う。最後に民衆貨車式タクシーのジプニーにとびこんだ時など、大歓迎を受けてしまった。その後、台湾に行って講演したんだよ。原子爆弾を落としたときの会議の話をしたの。原子爆弾を落とす前に、アメリカの責任者たちが会議をした。この原子爆弾を本当に落とすべきがどうか。その時、反対したのは一人の海軍の将軍だった。「そんなことはいけない」だが一人だけだった。あとは承諾した。理由は何だったか。「一度試せば二度と人類は使わないだろう」と。
 「これは理由にならない。一度使えば二度使うんだ」と私が言ったとき、シンとした中から「日本人はもっと残酷だった」と言って泣き叫びながら、一人の婦人が演壇に向かってきた。「日本人はもっと残酷だった」人々は彼女を止めた。私はそれを見ていた。私はありがたかった。初めて私は憎しみにであった。真実にであった。私はうれしかった。だけど私は彼女が止められるのをそのまま見ていた。私は「止めないでください」とは言わなかった。「演壇に来て、あなたの気持ちを話してくれ」と言わなかった。まだわたしは第三者として見ていた。だから彼女は救われていない。(太字=当ブログ管理者)

 同じサイトから、押田師による平和についての見方です。
 アラブとユデア(ユダヤ)が戦争しているときに、私は平和の核をつくってくれと呼ばれていったことがあった。その時も同じような体験をした、私はイエロニモの洞窟で急性肺炎で倒れた。死にそうだった。すぐに病院に移さなければ私のいのちはない。当時、戒厳令が出ていて、夜はだれも外出できなかった。外出すれば監獄に行く。私は夜中に倒れた。片肺の人間だから、本当に一刻を争った。その時私を助けに来たのは、飛行場に出迎えにきたユデア人老夫婦だった。監獄に行くのを承知で。キリスト教徒じゃなかった。
宗教の区別でも民族の区別でもない。本当に無心に真心になれるひと、こういう人たちだけが平和を本当に守っていくんだよ。上の方から操作される人間は、悪魔の道具になるだけだぞ。この世でもあの世でも呪われるだけだ。このことをよく自覚するように。終戦記念日で一番大事なことがこれだということを、皆さんよく覚えておいてくれ。大会社の社長になることなんか大事なことじゃない。本当の人間になることが大事なんだ。
 現在、第二次世界大戦の前よりもっと危険な状態だけど、だれもそれが分からない。もっとめくらになってる。便利だ便利だ、楽しい楽しい、冗談じゃないよ。心がなくなったらすべてはなくなるんだ。正直に、本当にかけがえのないもののために命を捧げて生きることだ。真心をもって、それを生きることだ。いわゆる文明社会の汽車は、もう断崖絶壁から落ちてんだよ。だんだんだんだん、みんな機械に操作されて心がなくなり、かけがえのないものがなくなった。
 文章も、そういう存在の響きがある文章がなくなってきた。ただ説明の文章だけ。どんなドキュメンタリーでも、存在の響きのない文章は信じるんじゃない。そんなのは文章じゃないんだ。そうやってみんな操作されるんだよ。存在の響きがないものは信用しちゃいけない。学校の教科書で存在の響きのある教科書があったら持ってきてみなさい。
 だから、テレビのコマーシャルのディレクターが私のとこに来てお御堂で声をあげてないてんだよ。「先生、私の胸はもう黒い穴でいっぱいです。私はもうこれ以上嘘がつけません」これが今の経済会の実態だ。 「地球にやさしい商品だなんて、もうこれ以上言えません」
 大きな建設会社の責任者たちが来て、「建設とは何だか分からなくなりました。私たち、建設するほど自然との調和がなくなるんです」全部、存在と遊離した価値だけを追ってるからだ。基本は存在なんだよ。平和は存在の響きからしか出てこない。方法論から出てくるんじゃない。そして悪魔が一番こわがっているのはそれなんだ。だから存在の響きをなくすためにいろんな連想のマニピュレーションの方法論を今研究しているんだ。それにみんなひっかかっているんだ。存在の響きが出たら自分たちが負けることが分かってるんだよ。
 暴力、幻想というものを容認している限り、平和は来ない。非常に深い根、そういう根に生きている人の言うことをよく聞くこと。そういう人と一緒に歩くの。日本が地獄の子になって、未来永劫みんなの恨みをかっていく国になるのか、最後の時点でもう一回生き延びて、日本のいいところを人々に分かち与えるのか、今本当に岐路なんです。だから、神様の手となって働いている人、その人と本当に協力するように。これ(「いま戦争はこうして作られる」という本)は、現在操作がどういうふうにして行われているか、どういうふうに湾岸戦争が行われていったか、ということを記したもんであって、操作ということは、背後に操作する何かがあるのね。中曾根さんが日本は不沈空母になるなどと発表したのは、個人的に偶然に言ったんじゃないんだ。日本列島改造論も、偶然にそういうものが出てきたんじゃないんだよ。日本の飛行場の急激な増加も偶然起こってんじゃないんだよ。いま、日本全国で十三の団体が飛行場反対でやっている。それでもつくるんだ。目の前に起こっていることぐらい分かるような平静さをもたなければだめ。一番怖い原発の話もしなかったが、夜話したら怖くて帰れない。このぐらいにしとこう。どうもありがとうございました。(太字=当ブログ管理者)


 ここでは、現実的政治的な方法論的平和論ではなく、もっと本質的なものとしての平和について述べられています。そこでは、一部のリーダーだけではなく、私たち具体的個人一人一人がアクセスすることで、集団的な平和への意志が形作られていくイメージです。
 「存在の響き」という言葉がキーになっていましたが、無味乾燥な意味の羅列ではなく、体験と感情がこもったもの、という意味であるように思われます。そこにおいて、「先の大戦に対する日本人の戦争認識について。-1」で取りあげさせていただいた高椅巌氏のおっしゃっていたこととも繋がってきます。
 アジアの人たちもそうですが、私たち日本人も、先の大戦での苦を未だかかえたままなのではないでしょうか。個人においても、集団においても、苦から解放されるためには、深い感情というものが不可欠なのかもしれません。そこには、抽象的客観的な知識ではなく具体的な個人が媒介になる必要があるようです。
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by darsana-te2ha | 2006-09-13 01:43 | 目に見えないコト
2006年 09月 09日
先の大戦に対する日本人の戦争認識について。-1
 8月の終戦記念日前後には毎年、話題になる戦争責任の問題ですが、僕個人的には所謂“左”“右”双方の方々の見方に違和感を感じています。
 所謂“左”の方々による被害者史観に対しては、当時の歴史的地政学的な流れから、先の大戦が国を挙げて突入していったものであり、ご自身がもし戦前に日本の一市民であった場合、どう感じ、どう行動したかという視点が抜けちゃってるのでは、ということを感じます。
 一方、所謂“右”寄りの方々に対しては、日本が近隣の他民族の人々に対して、今のアメリカによる「中東民主化」と同じように、自己中心的な理想を押し付け、軍事力による恫喝をバックに他民族のもつ文化、伝統や彼らの生命を強制的に否定したことなどに対する痛みから目をそらしているように思われます。

 いずれの立場の人たちも、「客観的な事実」という呪縛に捉われることによって、例えば実際に徴兵された兵隊さんが戦場でどう感じたかや、遠い戦場でのいまわの際の思い、空襲はじめ戦闘に巻き込まれてしまった内外の市民の具体的な思い等に対しやや不感症になっていませんか、という危惧をもってしまいます。

 感情を通して、遠くない過去の1~数代前の私たちの家族が、どういう思いで戦争を迎え、遂行し敗れたのかをイメージすることが大切なのではないかと思います。そしてそれは、左右両側の方々が他者を批判する前に行うべきことではないかと、個人的に思っています。


 まず初めに、自らも十代のころ戦争体験を持たれた、20世紀初頭ドイツの人智学者シュタイナーを研究してらっしゃる高椅巌氏によって書かれた文章です。

「千年紀末の神秘学」 高椅巌著より
 ところが、現代の日本人の歴史感覚を考えるとき、私たちは、本質的に記憶喪失症に陥っていて、昔のことを思い出すことに本能的な嫌悪感があるようです。むしろ現在から未来のことを考えようとしますから、未来についてですと、日本人は顔をぱっと明るくして語り始めます。けれども、過去に眼を向けることは本能的にいやなのです。もちろんその場合の過去というのは、過去百年間の帝国日本のことです。
(中略)
 たとえば、一九四二年、つまり昭和十七年、『文学界』という雑誌の九月号と十月号の二回にわたって、「近代の超克」というシンポジウムが掲載されました。戦時中の日本のことについて論じる人は必ずこれをとりあげるらいの資料ですが、これを主催した一人が戦後も活躍した河上徹太郎です。彼はこの討論会の最初の部分でこんなことを述べているのです。
明治以来、我々はかならずしも一様に生きてきたわけではないけれども、我々の感情というものは、

ここで感情ということばが使われているのに注意してください。
我々の感情というものは、ここでぴたっと型のきまりみたいなものを見せている。この型のきまり、これはどうにも言葉では言えない。つまりそれをぼくは「近代の超克」というのだ。

 こういういい方をしているのです。十二月八日以降、宗教家も近代主義者もマルクス主義者も、一様にぴたっと、ひとつの型にはまったような体験を持った。これはみなさんきっと共通でしょうというのです。そういうところから、近代の超克についての話を出してきているのです。河上徹太郎はやはり『文学界』の同じ年の正月号にも次のような文章を書いています。なおここで取りあげる文章は、いずれも竹内好の『日本とアジア』(著作集第三巻)からの引用です。
開戦に至るまでのわが帝国の堂々たる態度、今になってなにかと首肯できるこれまでの政府の抜かりない方策と手順、ことに開戦劈頭聞かされる煇かしき戦果、すべて国民一同にとって胸のすくのを思わしめるものばかりである。いまや、一億国民の生まれかわる日である。私はいたずらに興奮してこんなことを言っているのではない。私は今本当に心からからっとした気持でいられるのが嬉しくてしようがないのだ。混沌、暗澹たる平和は、戦争の純一さにくらべてなんと濁った不愉快なものであろうか。

こういう文章に見られる「ぴたっと型にはまったような気持」とか、「からっとした気持で嬉しくてしかたがない」とか、「混沌、暗澹とした平和よりも純粋な戦争のほうがなんと快いものか」という考え方、それは戦後になっても全然清算されていません。この気分は、今も私たちのなかに残って、生きて、存在するはずなのです。だから私たちが自分のことを心の中で平和主義者だと思い込んでいても、この河上徹太郎という近代主義者、非常に高度な知性を持った教養人がこのとき体験した気分は、私たちの夢の世界、感情の世界、死者と共有している共同の世界の中では、今でも生きてはたらいているはずです。河上徹太郎という個人の名前を出して、否定的なことをいっているようですけども、この思想、あるいはこの体験内容は、今日の私たちの中でいまも深く生きています。
 戦争中の日本は何をやったのか。どういう差別的な生き方をアジア全土に輸出していったのか。日本人が黄色人でありながら、同じ黄色人をいかに軽蔑し、差別したか。その辺のことが全然、歴史の知識ではなく、歴史の体験として、感情として、自分の中にはいっていないものですから、現在でも、それが無意識の通路を通って、親から子どもに伝わって、生きつづけています。
 親たちは、たとえば、日帝三十六年の朝鮮における差別、被差別部落に対する非人間的対応、沖縄に対する土地の買い占め等々に関して、なるべく知りたくないし、そういうことを知ると気持ちが重たくなってしょうがないから、今は考えたくない、これからいいことをすればいいんじゃないか、という感じ方で、そういう問題を処理しようとします。その結果が、子どもの世界を地獄にしてしまうのです。子どもたちの世界を地獄にすることは、親や教師の歴史に対する反省が足りないところからきているということが見えてませんと、今日の日本人の第八領界的な(=末世的な/当ブログ管理者)道徳生活から立ち直れるはずがないのです。日本の精神性を甦らす唯一の方法は、過去をどこまで徹底して認識できるかということです。

 いや全く同感だと思いました。この本が書かれたのはもう10年以上前なのですが、ここのところの靖国問題や世相について、既に予見されてる内容ではないかと思われます。
 アメリカともアジア諸国とも、その距離を今一度確認し、互いが自立をしていくべき時代の要請の強まった今こそ、一人ひとりの日本人が自分の親族や身近に感じる歴史上の人物をチャンネルにして『感情を通して過去を認識する』ことが必要とされてるのではないでしょうか(自分の聞きたくないこと、見たくないことが沢山出てきてシンドイ作業だとは思いますが…)

「先の大戦に対する日本人の戦争認識について。-2」へ続きます。
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by darsana-te2ha | 2006-09-09 15:59 | 目に見えないコト