人気ブログランキング | 話題のタグを見る
2006年 09月 13日
先の大戦に対する日本人の戦争認識について。-2
「先の大戦に対する日本人の戦争認識について。-1」からの続きです。)

 続いて、「キリストに出会った仏教徒だ」と自らをおっしゃり、自給自足の修道生活を八ヶ岳山麓でなさっていたカトリック司祭故押田成人師(大正13~平成15年)によるお話です。ちょうど大学生でいらした時に太平洋戦争が始まり、多くの学友が戦地に赴き、何人かが亡くなられたそうです。ご本人は徴兵されたものの病身のため内地に残り、戦後修道生活を始められたそうです。
 自ら進んで、戦争時に被害を受けたアジアの方々の憎しみに会いに行こうとされたこともあったそうで、私なんぞのような凡夫には到底真似できないことではありますが…。

子どもと生活文化協会HP内「平和への道」(1994年)より
私はね、南京大虐殺の真相を知りたくて中国へ行った。十何年前、まだ非常に入国が難しいころだったけど、香港でやっとビザがとれた。そのビザは都市だけのビザだった。私は香港から、私が聞いていた中国の赤十字の人に電報を打った。ただ、何時何分の飛行機で上海に着きます、と。
 (中略) 病院を出てすぐ、「それではこれから南京へまいりましょう」そして、紅十字の南京の責任者にお会いした。私は言ったの。「実際に南京虐殺の現場で犠牲を体験した人にぜひ会いたい。その方の言葉を聞きたい」「分かりました」三人の方を招聘してくださった。一人は「日本軍が戦争をするための大事な仕事を手伝ってもらいたい。まずここに穴を掘ってくれ」といわれて、みんな穴を掘った。穴を掘ったあとで一人ずつ首を切られて落とされた。彼は首を切られる前に自分から穴へ落っこった。そして下の人の服の下に首をつっこんで、こうやって首を切られたようにしてた。上からさんざん銃剣で突き刺された。だけど死ななかった日本兵が帰ったあと、友達が見に来て助け出された。もう一人は揚子江の川の上に一晩じゅう浮いて死んだふりをしてた人。そういう人の証言。もう耳をおおいたくなるような気持ちで私は聞いていた。そして、その銃剣で刺された人は、私の顔を見てね、「僕たちはこんなに似てるじゃないか。なぜあんなことができるのかねえ」って言ってたんだね。その時ね、私は当事者じゃないという意識がいつもあったの。だからまだ本物じゃない。
 もう一つの例を言おう。私は戦後、フィリピン、それから中国と台湾、そういうとことに行ったときに、どうしても日本軍がしたことにたいする憎しみに会いたかった。僕はね、フィリピンに着く前に、飛行機の上から見てね、ああ、あんなとこで友人たちが散っていったんだろうなあ、どこにいるのかなあと思いながらね。だけど憎しみに会いたかった。僕が日本人だということを分かるはずだった。僕が日本人の格好をしてるから。しかし、会おうとするほど歓迎に出会う。最後に民衆貨車式タクシーのジプニーにとびこんだ時など、大歓迎を受けてしまった。その後、台湾に行って講演したんだよ。原子爆弾を落としたときの会議の話をしたの。原子爆弾を落とす前に、アメリカの責任者たちが会議をした。この原子爆弾を本当に落とすべきがどうか。その時、反対したのは一人の海軍の将軍だった。「そんなことはいけない」だが一人だけだった。あとは承諾した。理由は何だったか。「一度試せば二度と人類は使わないだろう」と。
 「これは理由にならない。一度使えば二度使うんだ」と私が言ったとき、シンとした中から「日本人はもっと残酷だった」と言って泣き叫びながら、一人の婦人が演壇に向かってきた。「日本人はもっと残酷だった」人々は彼女を止めた。私はそれを見ていた。私はありがたかった。初めて私は憎しみにであった。真実にであった。私はうれしかった。だけど私は彼女が止められるのをそのまま見ていた。私は「止めないでください」とは言わなかった。「演壇に来て、あなたの気持ちを話してくれ」と言わなかった。まだわたしは第三者として見ていた。だから彼女は救われていない。(太字=当ブログ管理者)

 同じサイトから、押田師による平和についての見方です。
 アラブとユデア(ユダヤ)が戦争しているときに、私は平和の核をつくってくれと呼ばれていったことがあった。その時も同じような体験をした、私はイエロニモの洞窟で急性肺炎で倒れた。死にそうだった。すぐに病院に移さなければ私のいのちはない。当時、戒厳令が出ていて、夜はだれも外出できなかった。外出すれば監獄に行く。私は夜中に倒れた。片肺の人間だから、本当に一刻を争った。その時私を助けに来たのは、飛行場に出迎えにきたユデア人老夫婦だった。監獄に行くのを承知で。キリスト教徒じゃなかった。
宗教の区別でも民族の区別でもない。本当に無心に真心になれるひと、こういう人たちだけが平和を本当に守っていくんだよ。上の方から操作される人間は、悪魔の道具になるだけだぞ。この世でもあの世でも呪われるだけだ。このことをよく自覚するように。終戦記念日で一番大事なことがこれだということを、皆さんよく覚えておいてくれ。大会社の社長になることなんか大事なことじゃない。本当の人間になることが大事なんだ。
 現在、第二次世界大戦の前よりもっと危険な状態だけど、だれもそれが分からない。もっとめくらになってる。便利だ便利だ、楽しい楽しい、冗談じゃないよ。心がなくなったらすべてはなくなるんだ。正直に、本当にかけがえのないもののために命を捧げて生きることだ。真心をもって、それを生きることだ。いわゆる文明社会の汽車は、もう断崖絶壁から落ちてんだよ。だんだんだんだん、みんな機械に操作されて心がなくなり、かけがえのないものがなくなった。
 文章も、そういう存在の響きがある文章がなくなってきた。ただ説明の文章だけ。どんなドキュメンタリーでも、存在の響きのない文章は信じるんじゃない。そんなのは文章じゃないんだ。そうやってみんな操作されるんだよ。存在の響きがないものは信用しちゃいけない。学校の教科書で存在の響きのある教科書があったら持ってきてみなさい。
 だから、テレビのコマーシャルのディレクターが私のとこに来てお御堂で声をあげてないてんだよ。「先生、私の胸はもう黒い穴でいっぱいです。私はもうこれ以上嘘がつけません」これが今の経済会の実態だ。 「地球にやさしい商品だなんて、もうこれ以上言えません」
 大きな建設会社の責任者たちが来て、「建設とは何だか分からなくなりました。私たち、建設するほど自然との調和がなくなるんです」全部、存在と遊離した価値だけを追ってるからだ。基本は存在なんだよ。平和は存在の響きからしか出てこない。方法論から出てくるんじゃない。そして悪魔が一番こわがっているのはそれなんだ。だから存在の響きをなくすためにいろんな連想のマニピュレーションの方法論を今研究しているんだ。それにみんなひっかかっているんだ。存在の響きが出たら自分たちが負けることが分かってるんだよ。
 暴力、幻想というものを容認している限り、平和は来ない。非常に深い根、そういう根に生きている人の言うことをよく聞くこと。そういう人と一緒に歩くの。日本が地獄の子になって、未来永劫みんなの恨みをかっていく国になるのか、最後の時点でもう一回生き延びて、日本のいいところを人々に分かち与えるのか、今本当に岐路なんです。だから、神様の手となって働いている人、その人と本当に協力するように。これ(「いま戦争はこうして作られる」という本)は、現在操作がどういうふうにして行われているか、どういうふうに湾岸戦争が行われていったか、ということを記したもんであって、操作ということは、背後に操作する何かがあるのね。中曾根さんが日本は不沈空母になるなどと発表したのは、個人的に偶然に言ったんじゃないんだ。日本列島改造論も、偶然にそういうものが出てきたんじゃないんだよ。日本の飛行場の急激な増加も偶然起こってんじゃないんだよ。いま、日本全国で十三の団体が飛行場反対でやっている。それでもつくるんだ。目の前に起こっていることぐらい分かるような平静さをもたなければだめ。一番怖い原発の話もしなかったが、夜話したら怖くて帰れない。このぐらいにしとこう。どうもありがとうございました。(太字=当ブログ管理者)


 ここでは、現実的政治的な方法論的平和論ではなく、もっと本質的なものとしての平和について述べられています。そこでは、一部のリーダーだけではなく、私たち具体的個人一人一人がアクセスすることで、集団的な平和への意志が形作られていくイメージです。
 「存在の響き」という言葉がキーになっていましたが、無味乾燥な意味の羅列ではなく、体験と感情がこもったもの、という意味であるように思われます。そこにおいて、「先の大戦に対する日本人の戦争認識について。-1」で取りあげさせていただいた高椅巌氏のおっしゃっていたこととも繋がってきます。
 アジアの人たちもそうですが、私たち日本人も、先の大戦での苦を未だかかえたままなのではないでしょうか。個人においても、集団においても、苦から解放されるためには、深い感情というものが不可欠なのかもしれません。そこには、抽象的客観的な知識ではなく具体的な個人が媒介になる必要があるようです。

by darsana-te2ha | 2006-09-13 01:43 | 目に見えないコト


<< 「近現代」に終わりは来るのでし...      ポスト資本主義社会への産みの苦... >>